隣家に咲く薔薇より
私の家の隣家は、長らく空き家となっている。
昨年、越してきたばかりの私は、その家の主の顔を未だ知らない。
そんな隣家の荒れてしまっている庭を眺めてみると、一角にポツンと薔薇が地植えされたままで残されているのが目につく。私は普段、この薔薇をよく眺めていた。写真は、今朝撮ったものだ。
誰が世話をしてくれるでもなく、愛ででくれるでもなく。当たり前のこととして薔薇は、花を咲かせている。この場所に植えて、根を這わせてくれた主が居らずとも。
私たち人間は、集団欲が本能の生物だ。
常に誰かや何処かとの繋がり、そしてその意味を重要視しなければならない。
「君がいるから、頑張れたよ」
「応援してくれたお陰で、力になれました」
そのような結びつきの実感こそ、生きる歓びの基になってくれるものなのだろう。
でも、今朝この薔薇を見て思ったことがある。
ああ、この場所に根づくことができて、生きることができて、誰の力にも頼らずに毎年花まで咲かせることができる。
それこそが、生きる歓びの本当の礎になってくれるものなのだと。その観点こそが一義でなければならないのだと。
隣家の薔薇が、そう教えてくれた。
綺麗な薔薇。
毎日、見させてもらっている。
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