本当の遺失物とは?
とても大切にしていたアクセサリー。いつの間にか、自分の手元から失くなってしまっていた。 そのことに気がついたのは今朝のこと。どこを探しても見つからない。気分は一気にブルーに染められていった。
いったいいつから失くなっていたのだろう。私は、幾つかの思い当たる節を思い返していた。
失くしたアクセサリーは、大切な友からのギフト。お守りという意味と想いが込められた、世界でたった一つのものであった。
私はこれまでも、幾つかの大切な品を頂いては失くしてしまうという失態を犯してしまっている。大切な品というものは(特にアクセサリー類に関しては)常に身に着けていたいと思うものだ。そうすれは、遺失物となってしまう確率は、そうでないものと比較しておのずと高くなってしまうだろう。
そのようなリスクを感じながらも、でもやはり肌身の範囲内に寄せておきたいという想いは、もしかしたら他者よりも自分のそれは大きいものなのかも知れない。
大切なもの。それを失くさないことを一義に捉えるならば、極端な話、金庫の中にでも大切に保管しておけばいい。そうすることで、ものが失われるという危惧は限りなくゼロに近づいてくれる。しかしながら、仮にその行為を選んでしまったなら、自分の心の奥に存在し、積み重ねられてきた自己愛の礎が崩されてしまうような気がしてならない。
ものは、いつか自分のもとを去ってしまう。 極論に聞こえなくもないが、私はそのような観点を持つようにしている。
その想いの形には2つあり、一つはこの度のようにもの自体を失くしてしまう形。もう1つは、ものは有ってもそこに込められた想いを失くしてしまう形。
そこで一考。いったいどちらの形の事態が悲しいものなのだろうか。
私は、迷わず後者の形に悲しさを感じてしまう人間だ。それは、これからも一貫して言えることだろう。
今朝、気付くことができた失くしてしまったアクセサリー。もしかしたらもう一生目にすることはないのかも知れない。ひょっこり意外な場所から見つかってくれるだろうか。
でも、それが私の手元に届いた時の想いは消えることはない。目を瞑れば、いつでもギフトの主の美しい笑顔がそこにいてくれる。
それこそがギフトの命であることを、私は幸いにも知っていた。
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