ジンクスと占い
ジンクス。
よく使う語である。
本来、米国を起源とする語であり、縁起の悪い物事を意味するのだが、一般には善悪を限らず縁起を担ぐ対象となるすべての事象をいう。
人は、多かれ少なかれ、何かしらのジンクスを保有しているものだ。そしてそれは、しがらみとなって身に纏わりついてくるものでもある。私も内面をシビアに整理すれば、ジンクスからのしがらみの保有を否定することはできない。
例えば、次のようなこと。
この名前の人とは、人間関係をうまく形成できない。
この地域に住まう人とは、良い関係を築けない。
この血液型の人とは、話が会うことがない。
私の場合、ジンクスは善悪の悪の部類のみシフトしたものばかり。悪のしがらみの呪縛は、それに一旦飲まれてしまうと、抜け出すことは相当に困難なことになってしまう。
そして、ジンクス化された物事には、以後に先入観という厄介が派生してしまい、それが少なからずも新しい対人関係の妨げになってしまうこともある。
そのような自己分析ができる自分だから、占いも好きではない。
未来は目に見えるものではなく、大小なりの不安が付き纏うものである。そこに、何らかの光明を求めて、占いにその答えを求めたいと心が動く作用が人にはあることを、多少なりにも承知はしている。
でも、考えてみてほしい。自分の大切な未来を描き出せるのは、自分だけである。
それなのに、何の確たる裏付けのない占いからの導きが、自分の心の中に土足で上がり込んで、自分の行き先を左右し出してしまうのは、大変怪しからんことではないだろうか。
私のような揺れ動く心を保有する人間は、占いという怪物を遮ることは相応に難しく、目に触れてしまうと、特に悪事のことにはすぐ取り憑かれてしまうので、極力目に触れないような細心の注意を払うようにするようにしている。
ジンクス、占い。
それぞれ、目には見えない、測れない心からの導きである。しかしながら、この2つには大きな違いがある。
ジンクスは、自分の心の中で成長させてしまった導き。これは、自分の中に責任がある。
占いは、自分の外の世界に存在する導き。確たる裏付けがある訳でもない、責任を持ってくれるものでもない。
人生は短く、貴重な時間の賜り。大切な歩みの中では、いくつか岐路に立たされる重大なステージを迎えることもある。そのような時に、ジンクスや占いよりももっと関心を向けなければならないことが、きっとあるはずだろう。
自分の人生の責任は、自分にこそあるものでいたい。
これは、自分への戒めの伝言でもある。
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